バラナシ 生死について

ヒンドゥー教の露骨な死

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目の前に燃え上がるいくつもの炎。
紅く激しく燃え盛る炎とは対照的に、
死を迎えた人の安らかな表情が青白く浮かび上がる。
川辺の一角に無造作に積まれた不揃いな薪の上に載せられた死体が、炎の中で黒く焦げ、はがれて赤い肉を晒し、また焼け朽ちて、黒い塊になって行く。
その様子を遺族が見守る。近くから子どもの泣く声が聞こえる。

牛たちは微動だにせずに炎を見守る。神と目されるのも解る。
山羊たちは炎の傍で紙くずや薪の皮をせわしなく食べている。
犬や子どもたちはいつも通り走り回る。

十分な薪を買うお金がなかった人は、足や腕がほとんどそのまま燃え残る。
それをまた、川に流す。

あまりにも露骨な無数の死が、川の流れのような当然さで、この時の中を流れて行く。

バラナシ、ガンジス川沿いの火葬場。
ヒンドゥー教最大の聖地の一つ。
この地で死を迎えて、この川辺で火葬されて、灰を川に流されれば輪廻の輪から抜け出せると信じられている。彼らにとって輪廻の考え方は常識で、ヒンドゥー教徒ならば誰でも、ここバラナシの川辺で火葬される事を夢見ている。そのため、この火葬場は次々とは運ばれてくる遺体を24時間絶え間なく焼き続けている。
ここの火葬場で使われる聖なる火は3500年前にシヴァ神がつけて以来ずっと続いているのだと言われている。

バラナシにいる間、何度もここへ足を運び、多くの時間を過ごした。
ただ無数の死を眺め、自由に思いを巡らせ、マザー・テレサやガンジーの書いた本を読んだ。
「生き方」や「死に方」、「社会の在り方」、「平和」、「非暴力」
極端な「価値観」や「種類の違う常識」に触れると、また感じる事の幅も広がって行く。
物事を今までとは違った視点からも同時に見られるようになる。

そうするうちに、一人のヒンドゥー教の修行者に出会った。
他のインド人や修行者とは目が違う。
思った事をそのまま口にしながらも穏やかでいる。
その上、外国人である自分の向こうにお金を見ていない。
ただ、隣人愛と、自分が楽しむ心が、無欲と広い知識と経験の上に共存している。
これを併せ持つ人はインドに来て初めて出逢った。
彼になぜここまで違うのかと尋ねてみると、彼は数ヶ月間のヒマラヤでの修行から昨日帰って来たばかりなのだという。
彼がヒンドゥー教について色々と教えてくれた。

ーここで燃やされる意外に輪廻から抜ける道はないの?
「ここ以外にもインドの数カ所にこういった火葬場がある。」

ーそういった聖地で燃やされる意外に輪廻から抜ける道はないの?
「瞑想や修行を積んで完全に清らかになればどこで死んでも抜けられる道はある。」
この質問には他のインド人が何度か「ここで死ぬしかない」と答えた。しかし、知らないけれど適当に思い込みで答えていたのは明らかだった。こうして悪意のない知ったかぶりの為に文化や英知に対して誤解を植え付けるという事がいとも簡単に起こる。インドなどの国ではこうした事が起こる事が多いように思うが、日本でも同じ事だ。我々が「神道」、「武士道」、「日本の仏教」、「伝統」等について海外の人に本質的な質問をされた時、我々はどう答えるだろうか。
何人だろうと、何教だろうとこんな事が世界中で日常的に起こっている。

ーブッダもそうして輪廻から抜けたの?
「ブッダはヴィシュヌ神の化身だから例外だよ。」
我々としては馴染みがない考え方だが、彼らにとっては常識だ。
しかし、日本にもキリストを弥勒菩薩と理解した人々がいた。やはり、本当は驚く事ではない。

ー人々はここで死ぬ事を喜びと感じながら死んで行くの?
「もちろんだよ。ここで死んで火葬される事は多くの人が夢見る。本人も、家族もそれを喜び祝う。しかし、病気になって死を待つ為にこの地へ来ても、いいカルマを満たしていなければ、どういう訳かここで死ぬ事はできない。心が清らかになっていなければ、病は癒えてしまい、他の土地へ移った時に死ぬ事になる。つまり、ここで死ぬ事はいいカルマを満たしている事と同じ意味なんだよ。ただ、若い人が死んだ場合は別だ。人生を全うしていないから、また生まれ変わる事になる。誰も喜びはしない。」

死を喜び、祝う。
なぜなら輪廻の輪から抜け出せるから。
これがここでの常識。

しかし、炎で焼かれる年老いて亡くなったバラモンを前にして
遺族の小さな子どもは大声で泣いていた。
産まれ育った社会での常識がどうあれ、愛する人との別離はやはり人間に取って悲しい事なのだろう。

誰も避ける事の出来ぬ死
ヒンドゥー教では輪廻が信じられ
エジプトでは魂が戻る為にミイラがつくられ
キリスト教やイスラム教では最後の審判や天国と地獄が説かれ
アメリカ先住民はグレートスピリットへ戻ると考え
日本では黄泉の国が語られた

現世を苦しみと捉えて逃れようとする人々も居れば
不老不死の方法を渇望する人々もいる

死後は無であると言う最近の日本人に多い考え方も、科学という証明を基盤とする最近流行の宗教から産まれた。しかし、科学は証明したものに関してはめっぽう強いが、未知の領域に関しては絶望的に弱い。証明にばかり頼る癖が高じて、分らない物を機械的に「否定」しがちな癖がある。

ただ、どの考え方にも優劣はない。
「分らない」という共通点をもって対等だ。

死後の世界を見た人もいると言うが。
生き返った点で、本当の死者とは異なる。
生き返った人の見た物と、肉体が霧散した人の死が同じとは限らない。

とにかく分らない。
しかし、死ねば分る。

このように眺めると、人々の多様性は本当に面白い。
「死」にもしも「苦しみ」が伴うならば、「苦しみ」は好まないが、「死」を知るのは楽しみで仕方ない。
しかし、死に急ぐ事はない。
生もまた、死と同じくらいに分らない事、不思議な事、面白い事で溢れている。

生きている間は生を楽しみ
死に向かっては死を楽しむ

今この瞬間を
よく生きてよく死のう

※現地での撮影は禁止されていたため、炎の写真は昔メキシコの砂漠で野宿をした時の物です。

-バラナシ, 生死について