死について

死は誰にでも必ず訪れる。

必ず訪れるものを恐れたり、悲しんだりするのは健康的じゃない。
恐怖や悲しみが約束された人生を自分で選択する必要はない。
死を恐れるたり悲しむ意味はない。

死にも得する事が有る。
「死後に何が起きるか」という謎の答えを知る事が出来るという事だ。
これは人類にとって歴史的、世界的に見て最大の謎の一つだ。
多くの知恵者がこの問題に取り組み、何千年、何万年という月日をかけて考え続けた人類は、未だにその答えを解明していない。
そんな、人類にとって最大の謎の答を、何の努力もせずに誰もが知る事が出来る。
人生の最後にふさわしい最大の贈り物だ。

ホーキング博士が先日「脳について、部品が壊れた際に機能を止めるコンピューターと見なしている。壊れたコンピューターにとって天国も死後の世界もない。それらは闇を恐れる人のおとぎ話だ。」と発言していたけれど、今の所、人類は生きてる間は死後の事について「分らない」意外言うべきじゃない。何故なら生きている人間の事すら誰も解明出来ていないのだから。物理学で人の心を説明出来ないのに、物理学者が物理学の知識を背景に死と共に心が消えると断言するのには無理が有る。
例えると、テレビの仕組みを知らずに中に小さな人が住んでいると思っている人が、テレビが壊れて中の人々が死んだと思い込むようなものだ。

逆に、一部の宗教者が自分に都合のいい死後の世界を作り上げる事も有るが、その話は矛盾に満ちている。さらにそれを背景に恐怖によって人々を煽動するのは社会にとって大きな脅威の一つだ。
ホーキング博士の発言はこれを否定する意図が強かったようにも感じる。

誰にも分らない事を分ろうともがいても意味がない。
しかも、いつかは誰にでも知れる事。
生きている間は生きれば良いし、死んでいる間は死んでいれば良い。
ただその状況を受け入れ続けるべきだ。

そうすれば最初から先にある死を恐れる必要はない。

しかし同時に、死から目をそらしては絶対にいけない。
いつか来る死を受け入れる事は、自分の望む人生を生きる為に必要不可欠な事だからだ。
終わりから目をそらしていれば、いくらでも時間を無駄にする事が出来る。
明日死ぬと分れば誰でも今日する事を真剣に考えるように、自分の人生を生きる為に死と真っ正面から向き合う事は必要な事だ。
偉業を残した人の中には死にかけた経験をした人も多く、その関連性は明らかだ。

死と正面から向き合いながら
生きていようが
死んでいようが
今この瞬間在るべき様に在る。

死に限らず、分り様のない事に対していたずらに不安や恐怖を感じるのは無駄な事。
ただ最善を尽くしながら、常にその瞬間に満足していれば良い。

ある宗教を信仰するある国では、天国地獄の概念がなければ人間は欲望のままに生きて、世の中が荒れ果てると考えている人も数多く居るようだけれど、それは人が非常に無知な場合だけだ。

良い悪いの制約無しに、究極的に人が求める物は、周りを顧みずに基本的欲望を満たす事ではない。
人は他者の中に自分を見る。
心を健康に保ち、分裂していた自分自身を統合して保つ事が出来たなら、規則や恐怖に囚われずに純粋に自分の心が求める生き方が、愛に満ちたものでもあるはずだ。

仮に完全に物質だけで見れば、最初から自分自身などという境界線はない。
食べた物が体になって部品は入れ替わる。
呼吸と共に酸素と二酸化炭素を交換するという事は、血液を自分の一部と見做すなら、自分の一部だった酸素分子は次の呼吸ではとなりに居る誰かの一部になっている。
自分の体を構成する分子とそこに見える樹を構成する分子がかつて共に一匹の恐竜の体の一部として機能していたかもしれない。
この自分自身は質量を持った物質として、消え去る事無くただ形を変えて行く。
エネルギーの一形態としてこの世の終わりまで存在し続ける。

皮肉にも、物理的に考えた方がワンネスと言われる世界観と違和感なく重なる。
自己と他の境界線は無く、時間軸の中での自分自身という存在も曖昧になる。
物質的な面だけを見ると、全ては一つだという事が完全に自然になる。

物事は形を変えて存在し続けて、自分自身も曖昧な存在で形を変えて分散と凝縮を繰り返して存在し続ける。

しかし、それ以外にも分っていない事は山のように有る。
人間が持っている感覚で認識出来る物はこの世界全ての中の1%以下。
いや、
1/無限

死を恐れる事はない
死を悲しむ事はない
死後を知る必要はない
死という変化を認めながら
よく生きれば良い

人が理性を持って幸せに生きる為に、天国も地獄も必要ない。
ただ自分を知るだけで良い。

ただ
よく生きて
よく死にたい