カルカッタ 生死について

マザー・テレサの家 死を待つ人生

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現在、世界中に広がった今は亡きマザー・テレサの活動。
彼女が最初に開いた施設、「死を待つ人々の家」でボランティアをしてきた。
この場所は、重病を抱えながら、身寄りも無く死を待つ人々を受け入れて愛を与えるという事から始まった。
この「死を待つ人々の家」では、現在も数十人の人々が日々を過ごしている。

朝、施設につくと洗濯から仕事が始まる。
この施設に入居している人々と別々の言語ながら言葉を交わしたり、
マッサージをしたり、運動を手伝ったり、食事の準備をしたり、食器を洗ったり。

何人かがベッドで漏らしてしまった。
脱がして、体を拭いて、シーツを変えて、着替えさせる。
その中の一人は体が硬直してしまっていて、膝を曲げて股をかたく閉じた状態から動かない。
意思表示もほとんど出来ない。
他のボランティアの方がシーツを変える間、ほとんど動けない彼を抱きかかえる。
小便で濡れた体。
骨の形が浮き出るほどにやせ細った体。
乾燥してかさかさになり、小刻みなしわで覆われている皮膚。

シーツの取り替えが終わって、彼をベッドに戻す。
体を水で濡らした布で拭いて綺麗な服を着せようとする。
すると彼が自分の腕に抱きついて動かない。
彼の口がほとんど動かずにうわ言のように声を出す。
「まーまー まーまー まーまー……」
目はうつろで、呼吸は苦しそうだ。

かつて経験した事の無い状況だった。
驚くほどに、強い感情も、複雑な思考も浮かばない。
ただ、じわりと愛おしさを感じる。
彼の事は何も知らない。
彼の感じる事も分らない。
彼が生と死のどちらを望むのかも分らない。
何の理由も無い。
理由も無く単純に、穏やかな「愛おしい」と言う感情が湧いてくる。

「死を待つ人々の家」
死を待つとはどういう事なのだろうか。
彼らは死を待つまでの間、何を求めるのか。
死が訪れるまでの間、重病の苦しみが横たわるなら、何の為に生きながらえて「待つ」のか。
しかしそもそも、死への距離が近い彼らと、健康な我々と、「死を待つまでの時間」という意味で人生に違いなどあるのだろうか。
人は誰でも産まれた瞬間から「死を待つ人」である事に変わりはない。

自分が彼のような立場になって、身寄りも無く、苦しみの中で求める事も伝えられない状態にあったなら何を求めるだろうか。
きっと、身を焼かれるような孤独の中、ただ人の温もりを求めるだろう。
今、自分には彼の目を真っすぐに見て、理由も無く湧いてくる愛しさに任せて微笑んでいる事しか出来ない。
時間が止まってしまったように、世界がここに凝縮している。

身寄りがいてもいなくても
病に冒されていてもいなくても
死が近くても遠くても
本当はみんな彼と同じなのではないだろうか。

現代の日本では、物質的豊かさの中で「人生」という「死を待つ」時間を、身を焼かれるような孤独を感じながら、ただ人の温もりを求めてさまよう人々が無数にいるのではないか。

だからこそ、その痛みと向き合って乗り越えた人々の多くは、その痛みを知っているからこそ、人に愛を与えたくなるのではないだろうか。
今、旅をしながらはっきりと感じる。
世界中で人の幸せが自分の幸せだと心から感じ、家族や隣人、日本や、世界、環境の為の活動をするひとがどんどん増えてきている。
彼らの多くはそれを「正しい事」としてではなく、「自分の望む事」として行っている。

人を楽しませようと底抜けに明るい人。
どこまでも人に愛を与え続けようとする人。
そういった人ほど、過去にとてつもなく大きな苦しみや、深い孤独を味わっている。

大きな苦しみや、深い孤独、そして死を身近に感じるような経験をしている人の多くは、
「死を待つ時間」を人や社会や自然に愛を与える為に使うと決めて今を生きている。
そして、人に多くを与える人ほど幸せそうにしている。

理由は分らない。
ただ、はっきり覚えてる。
自分が物心ついて間もない頃、たまたま自分がした事で人が喜んだ。
その事がどうしようもなく嬉しかった。

死を待つ間、どう生きるかという大きな選択は、
思考によってではなく、
そういった理由も無く感じる事によってもたらされるべきなのだろう。

また、生き方と死に方を考えさせられる。

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最近、マザー・テレサに関してネガティブな情報をネット上で度々目にする。
”マザー・テレサ”で検索をすれば「洗脳看護」「怖い素顔」という言葉が出てくる。
内容を読んでみると、確かに一つの見方として的を得ている部分もあると感じる。
もちろん様々な団体や人々の思惑に利用された部分も、彼女がそれらを利用した部分もあるだろう。
しかし、それも個人の意見。
自分は彼女の残した施設、そこにいる人々を見て思う。
そこにはもちろん完璧ではないけれど、単純に自分に出来る事を模索しながら、様々な葛藤を持って今を生きる人々がいる。
それは、与える側も与えられる側も同じ事。
誰一人完璧じゃない。
誰にでも弱さがある。
一つの行動には、様々な影響が起こる。
人々から見て、それが良い影響だったり、悪い影響だったりする。

マザー・テレサがかつて過ごした場所を見て感じる事。
きっと彼女は自分の弱さや小ささを痛いほど自覚しながら、「奉仕」「愛」を信じて生きた一人の人だった。苦しみながら、完璧になれないながらも自分なりの最善を尽くして淡々と献身に生きた一人の人だった。
良い悪いではなく、ただ彼女の心を感じ、自分に出来る最善の事を考えていたい。

マザー・テレサの若き日の言葉を引用する。

「神よ、今日は孤独の苦しみがどれだけひどかったことでしょう。いつまで私の心が、この苦しみに耐え続けられるかわかりません。
涙はとめどなく流れ落ちました。すべての人が私の弱さを見るでしょう。
神よ、今こそ自分と、そして誘惑者とたたかう勇気をお与えください。
私の自由な選択と確信によって行った犠牲から、私を退かせないでください。
あなたの愛のために、私は「神の愛の宣教者」として生き、そして死にたいのです。」
マザーの初期の日記より
愛する子どもたちへ マザー・テレサの遺言 より

(世界平和のために何をしたらいいのかと聞かれて)

帰って家族を
大切にしてあげて下さい。

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