本物

「真理」
歴史上、現在に至るまで、多くの人々が「真理」を語り、教えてきた。
「真理」に至る事を「覚り」と呼んだ。

しかし
誰が語ろうと
どんな言葉を使おうと
どんな音や形を使おうと
表現し、伝える限り
その「教え」は絶対に「真理」に達する事はない。

「真理」はあまりにもシンプルで
何かで表現した瞬間に、すでに多くを語りすぎている。

教典や教えは
その多く語りすぎた部分を
それがいかに語りすぎていたかと言う補足をし
シンプルさをシンプルでない言葉や音や形で説明しようとする。
複雑な説明になってしまった分
誤解を招かないようにと、さらに注釈を加える。
そうして膨大で複雑な教えになる。

「真理」はこの世で最もシンプルで
同時にこの世で最も複雑なもの。

「真理」は我々が認識出来るものと認識出来ないものその物。
ただ今この瞬間の在りのまま。

「石」を見れば、「石」の数だけの色と形がある。
一つとして同じ物はない。
しかし、言葉で「石」と言えばただ石と定義した物全体を指す。
その上、「石」の定義も人の数だけある。
絵に描けば、その絵が本質に取って代わる。
「石」の本質を表現する事が出来ない上に、共通の認識を持つ事すら叶わない。

本物を見たければ
ただ、ありのままを見る他ない。
認識せず、判断せず、分類せず、拘らず、囚われず、
ただこの瞬間に感じるもの
ただそのもの
それ以外の「真理」はない。

しかしそうした瞬間に「自我」は消えてしまう。
自分はその場からいなくなる。

同時に、
目に見える世界も
音も香りも感覚も
自分だけにしか感じられない物で、誰とも共有する事は出来ない。
光は自分の網膜に飛び込んだ光子だけを認識出来る。
それは、自分が「光を認識」するというエネルギーに転換される。
同じ光子を誰かと共に感じる事は出来ない。
音も香りもあらゆる感覚が同じ事。

それぞれに認識出来る世界は、
根源からすでに完全に違うもの。
この世界は自分しか認識していない。
そして認識出来る物は全て、自分の認識のエネルギーに変換されたもの。
認識した代わりにもうこの世から消えている。
色即是空 空即是色

自分の認識している世界は
自分の為だけに存在し
認識した瞬間に消える
完全な孤独
天上天下唯我独尊

しかし、だからこそ、感じられるもの全てが自分自身でもある。
全てが自分自身で、あらゆる物が一つ。
一部の孤独も感じる余地がない。
梵我一如

自分の世界には自分しかおらず、
同時に感じられる全てが自分自身と同じ物であるならば
「自分の為」と「人の為」は全く同じ事になる。
「人を傷つける事」は「自分を傷つける事」になる。
「人を愛する事」は「自分を愛する事」になる。

だから、真理を見る人は
判断せず
悪口を言わず
誰にでも同じように接し
感情を乱さず
何物にも執着せず
過去にこだわらず
未来に囚われず
瞬間に全力を注ぎ
太陽のように愛を放ち続ける

「覚り」という言葉を使う必要はない。
言葉にすると真理から離れ、
自らを他と隔て、
誤解を招き、偏見を生む。

本物はただそう在る。
その在り方は限りなくシンプルで怪しんだり、疑ったりする余地がない。
そして本物とそうでない物との違いは、
電球と太陽のように、誰の目からも明らかになる。

「真理」を言葉や音や形で表現するのも時には役立つ。
人々に「真理という本」の「目次」を与える事が出来るかもしれない。
人々に「真理という世界」を描いた「世界地図」を与える事が出来るかもしれない。
しかし、ただそれだけの事。
「目次」が「本」にはならず、「世界地図」が「世界」そのものにならないように、
その「教え」が「真理」になり得る余地はない。

教えを体系化すれば、真理から遠のく。
教えに名前を付ければ、好く人と、嫌う人がでる。
「真理」の名の下に人が別れ、対立を生む。
「真理」からさらに遠のく結果になる。

本物ならば
名前は要らない
ただどこまでもシンプルな真理を実践して
誰一人分ける事なく
太陽のように、ただ本物であればいい。

十分に光や愛を与えられた人は
自らも光や愛を放つようになる

ただ幸せを願う人々が、誤解やプライドや嫉妬から別れる事なく。
思いやりで繋がって生きられる社会を夢見て。