マドリード 歴史について

スペインの街並から歴史を思う

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(写真:スペイン アビラ)

スペイン・マドリードに到着して数日。
まず到着前、飛行機の中で既に驚いた。
土地が乾燥し切って見渡す限り地面が薄い茶色一色。視界に入る大地の殆どが畑の様だけれど何かが育っている様子も無い。ここはそういう土地らしい。もちろん水の豊富な地域もあるけれど、スペインの国土の多くは乾燥地帯。「ドンキホーテ・デ・ラ・マンチャ」は有名だが、これは「乾いた土地出身のドンキホーテ」という様な意味らしい。

人が集まる街の一つ一つはそこまで大きくはない。歴史上、様々な民族がこの地に暮らし、その為に多くの争いが起こった。特にキリスト教と回教徒の争いの物語が多く語られている。その名残でスペインは西洋文化の中にエキゾチックな雰囲気も併せ持つ。この地域には侵略に備えて周囲をを大きな城壁が囲っている街も多い。城壁は今もそのまま残っていて、建築物や街並も中世の面影をそのまま残す。その風景は芸術的で美しい。

それぞれの街に大きな協会があり、その中のいくつかは建築に100年以上の歳月を費やしている。外観も内装も細かい彫刻に覆われた巨大なその姿は圧倒的な威厳を持っている。中に入れば高い天井に色鮮やかなステンドグラス、遥か見上げる金色に輝く祭壇とパイプオルガン。信仰心の為に人間はここまで出来るのかと思わされる。と同時にこれは人々に信仰心を持たせる為の最高の道具だと納得させられる。信仰心を持ってこの場所に来れば、光り輝く世界との一体感を感じる事が出来るだろう。

以前、中米マヤの末裔の地、南米インカ帝国の地を訪れたけれど、これらを侵略して現在その土地を支配しているのはスペインから海を渡った人々。それぞれの文明の遺跡や民族の血脈は残されているけれど、その文化や魂の核心はごく少数の人々が護るのみで殆ど失われている。それぞれの土地でその民族の築いた都市の上にそのまま新しく街を作り。民族の築いたそれぞれの信仰の為の祭壇を破壊し、その土台の上にカトリックの協会が立てられたりしている。今、スペインの地を見て、(なるほど、この土地で歴史を重ねた人々が北中南米であの歴史を作ったのか。)と納得する部分がいくつかある。これからイタリア、ギリシャ、中東、アフリカと西洋世界を遡って行くに従って、また何かを感じさせてくれるだろう。

侵略の歴史について、スペイン人や特定の宗教を批判したい訳ではない。それは残念ながらどこででも起こっている。日本国内でさえ。縄文と弥生、蝦夷と大和、アイヌ、琉球と日本。どこででも起こっているから問題ないなどと言える訳も無い。しかし、感情的にならずにより良い状況を模索する為に、起こった事を先入観抜きに冷静に直視して学ぶ必要がある。感情的になってしまうと、自分に都合のいい事だけを裏付けも無く確信して、都合が悪い情報は無条件ではねのけてしまうようになり易い。そして、本当の意味で学ぶ事も真実に近づく事も難しくなってしまう。

ここで一つ疑問が湧く。このような広範囲で乾燥した土地は知る限り日本には無い(日本の真の豊かさについて以前記事を書いた。その記事へはこちらから。)水も作物も豊富とは言えない。このような土地の人々がどのようにして国力を蓄えて一時は世界帝国を築くまでに至ったのだろうか。

今の自分で考えうる事を書いてみようと思う。
「大帝国」、「世界的国家」を築くには「モチベーション」と「強大な武力」が必要になる。
「強大な武力」には富や人材や資源などの国力が必要だが、それらが有ったとしても侵略への「モチベーション」がなければ武力は構築されない。逆に「モチベーション」が有れば国力をつける事も全ての必要な過程の中の一部なので、如何に強い「モチベーション」持つかという事が鍵になる。
つまり人が自分の人生をどう見るのかということだ。自分の生涯やこの世界全体を戦争ゲームと見做してプレイするのかどうかということだ。国を広げる事を目指す事が当然の事という風潮が必要になる。

その侵略に「モチベーション」を持つという事の為に考えられる事が二つある。
一つは「不足による必要と渇望」、一つは「充足、不足に関わらずに湧く本質を見失った際限のない欲望」だろう。しかし、後者は精神的に満たされない状態を背景に持ち、前者の記憶を持つが故の「失う不安」や「精神の慢性的な飢餓状態」、「足るを知らない」事を原因とする事が殆どだろう。
しかし、権力者が民衆に戦争の理由を伝える時にはそれを正当化する為に信仰心や愛国心や正義感などを煽ったりもする。
「不足の記憶」。
世界中を植民地化して行った西洋文明で言えばキリスト教カトリック。その母体であるユダヤ教、モーセの十戒は国も食料も持たない流浪の民族が如何に人間である事を保ちながら生き残るかという苦慮が見える。国を持たない民族が自給に十分な資源の無い痩せた土地で生き残る為に、他民族から何らかの形で有利に利益を得なければならず、それを正当化する為の「選民思想」だったのだろう。旧約聖書の中では、神の名の下に神の支持通りに他民族国家を侵略し、女子供まで皆殺しにする下りまで有る。そして、生き残りの為に自然界の物は利用するだけ利用する他なかったのだろう。人間以外の自然界の存在は人間に支配される為にあるという考え方をしている。キリスト教では基本的に神の前に皆平等という考えに変わっているが、自然界に対する見方は依然として支配的だ。現代起こっている自然破壊の根底的な理由の一つだ。根強い「不足の記憶」が教義に影響を与えている。

ドイツはナチス台頭当時、経済的に追いつめられていた。戦前の日本は世界中が西洋文明の支配下に置かれて行く中、国家と民族の存続の危機にまで追いつめられていた。欲望というよりは生き残りの為に「不足」と「不安」につき動かされている。

これらのどの例にも「善悪」という言葉は当てはまらない。ただ因果と流れがある。

話題の元になったスペインの乾燥した土地がカトリックの背景に加えて大帝国を築く「モチベーション」の元の一つになったかは自分には分らない。ただ、スペイン帝国時代、食料自給する事は不可能で、食料を輸入に頼らねばならず、経済を維持する為にアフリカからの奴隷と南米からの銀が必要不可欠だった。自国の事情と同時に周りの国との関係上、競争から降りる事が出来なかったという部分も大きいだろう。

ただ、今人類全体の生存の為にこのような「不足」や「欲望」による悪循環を断つべき時に来ている。(この事についての記事、必要な人類の進化についてはこちら)
その為の最も重要な事は、まず最低限の不足を無くす事。人々が皆、心身共に必要最低限の状態は満たされる必要が有る。そして心身共に「足るを知る」という事。人々が本当に必要な物を見極めて、欲望に振り回されずに自分に幸せを与えられる能力を持つ必要が有る。
その為には段階が必要になるが、それを進めて行く為の鍵の中で最も重要であろう物は「緑化」、「生産性のある経済活動」、「教育」になるだろう。

「緑化」をして今「不足」している国でも食料を自給出来るようにして、他国に頼らなくても生命を維持出来るようにならなければ安定は無い。奪わなければ生きられないなどという状況が起こらないようにしなければならない。そして緑化をすすめて行く事はは今の時代の技術を持ってすれば夢物語ではない。

そして世界経済の矛盾を解く為の単純明快で確実な方法は、生産性を上げるということだ。人類は無から物を創り出している訳ではなく、日の光や資源など、既に無条件で与えられ続けている物を扱っているに過ぎない。その中で何を利用すべきか冷静に判断しながら、より多くの人が自発的に生産性の高い活動をしていくべきだ。「お金」だけを扱い、生産性のない仕事をする人が裕福になり、生産をする人がしない人を養っている形になっている。生産者はより多くを生産しなければならず、生産物が十分でなければその値段は上がり、それを買う人はより多く働かなければならない。そうして「利便性」を維持する為に全体の労働時間は跳ね上がっている。これ以上「利便性」の為に格差を広げながら「自由」を犠牲にすべきではない。

そして中でも「教育」が重要だ。この中に他に考えうるあらゆる問題や解決法が詰まっている。なぜなら「人」として問題に直面するのも解決するのも「人」だからだ。「緑化」や「生産性のある経済活動」を決断して実行していくのも一人一人の人間で、教育はその人間を育てる。心を育てる。
もちろん教育機関や仕組みだけの話ではない。総合的に人を育てるという意味での「教育」だ。

中世の街並を眺めながら。そんな事を徒然と思う。
歴史上でスポットライトを浴びた舞台がそのまま目の前にある。けれど現在もそのストーリーは続いていて、その表面に現在があり、それが流れ、動き続けている。
現在の歴史は、現在生きている人そのもの。そこに本物のストーリーがある。それは十分面白く深みがあり、エキサイティングな物語。
我々はこれからどんな歴史を生きるのか。それを見ていられる事は単純にこの上なく面白い。

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長文読んで頂き有り難うございました。
思いつくままに書いて話しが急激に展開している上に、勉強不足でまだまだ少ない視野からしか見られていない文章ですが、要らない物は無視して、ほんの少しでもいい物を得てもらえれば幸せです。

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