サンダンス四日目
最終日、殆どのダンサーが既にピアッシングを終えている。
何も食べずに三日間以上経っているが、空腹はやはり殆ど感じない。
しかし、喉の渇きは普段の「乾き」とは別の感覚として感じていた。
水分が足りない。最終日、口の中は乾燥し、頭に運ばれている血液も足りていない。手足は痺れ、視界が狭くなるのを意識的に抑える。転んでしまう訳にはいかない。
4ラウンド踊って祈る。あっという間に時間が過ぎてゆく。
ついに四日間に渡るサンダンスが終わりを迎えた。
皆で抱き合い、感謝と喜びを分かち合う。
感極まって涙を流している女性も何人かいる。
この数日間、本当に多くを学ばせてもらった。
精一杯祈った、そしてピアッシングという形で自分の血を捧げた。
しかし、自分はまだ何も出来ていないし誰の力にもなれてはいない。
その歯痒さは消える事が無いのかもしれないが、与えられた人生の時間の中でその時に出来る限りの事をすると決意を新たにして祈りの日々を終えた。
残された時間は長くてあと約60年、短ければもう幾らも無いかもしれない。どうなるとしても、しっかりと目指すところを見据えてこの時間を良く使いたい。
サンダンスについてよく言われた言葉。
「全ての日々をサンダンスと共に生きる。」
感謝の気持ちを持つ事。
謙虚に祈る事。
純粋さを保つ事。
それらを日々の生活の中に常に持ちながら過ごすということだ。
もしもそんな人々で構成された共同体があったなら、どんなに素晴らしい場所になるだろうか。
犯罪は起こらず、心配事も殆ど無く、自然や恵み、人々への感謝を忘れずに平和に暮らせるのではないか。
こんな事を言えば「そんな物は綺麗事の夢物語だ。」と思ってしまうかもしれない。
しかし好ましい事も避けたい事も公平に扱ってほしい。
実際にそのように生きて来た人々が歴史上に存在するのだ。
アメリカン・インディアンの人々はかつてこの地で、世界初の平和同盟を創り武器を対話に変えた。警察や裁判も無ければ、罪人を罰したり拘束したりする場所も無い。教育から人々の繋がりまで現在の先進国で見られる仕組みとは違う。その中で現に数千年も平和に暮らして来たのだ。他の大陸で人々が物質的豊かさを追求して技術を発展させたその時間を使って、インディアンは「平和」や「調和」や「愛情」を社会に同具体的に行き渡らせるかを研究し、実行して来たように見える。どちらが優れているかなどを論じる気はない。ただ事実は事実として見るべきだ。現代社会の中で綺麗事に聞こえるような事も、人間には可能でそれは歴史上実際に起こって来た事なのだ。
頭ごなしに「誰もが幸せに暮らせる社会など有り得ない。他人を蹴落としても生き残る他道はない。」などと考える必要は無い。そんな苦しみを無条件で背負う代わりに、希望を持つ事が現実的でそれを選択するのは夢物語ではないという事だ。
以前、あるインディアンの長老が語った言葉を聞かせてもらった。とても印象的な言葉だった。
「私にはずっと解らなかった。なぜ大いなる神秘は平和に暮らしていた我々のもとへ白人と破壊をもたらしたのか。我々は住む場所も、文化も、言葉も、家族も失って大変苦しい思いをして来た。なぜこんな思いをしなければならないのか、ずっと問うて来た。それが今解った気がする。それは計画された事であり、我々は離れた所にいた兄弟と出会う事によって、彼らに大切な事を思い出させる役目があったのだ。より大きな調和の為に必要な痛みだったのだ。」
社会を変える等という事は途方も無く難しい事だ。
しかし、目を大きく開ければ、誰の目にも明らかな不公平さや不条理さ、おかしさが無数に目に入る。そんな物を減らす事を諦めたくは無い。
この後サンダンスで出会ってお世話になったバウキングドックと共に数週間生活をした。
その事についてこれから書いていこうと思う。
写真はサンダンスの終わった日、彼の車で家に向かう途中に寄った池と、ミシガン湖の夕日。
関連記事