言葉について

言語の役割

我々は言語を使って思考し、世界を認識し、他者との意思疎通を行う。
しかし、一つの「言葉」の意味や解釈は人の数だけある。そんな言葉は世の中に多く存在する。「愛」「神」「生命」「魂」「幸福」など挙げれば切りがない。(厳密には全ての言葉がそうだと考える。)
これらの言葉は人と人との会話の中で大雑把な概念を共有する為に使われる。これらの言葉を発する人の意味する物は、個人の全人生経験に基づいており、非常に深く複雑だ。しかしそれを言葉にすると単なる短い音になる。それは特定の波長の振動の束となり、他者の鼓膜を振るわせ、それが電気信号となって脳に伝達されて言葉として認識される。そして例えば「愛」という言葉を聞いたならば、その短い音の意味するところを自分の経験や知識から引き出してくる。
その意味が話し手と聞き手で100%一致する事は有り得ない。その為には異なる二人が完全に同一の経験と思考回路を持っている必要があるがそんな事は有り得ない。
たった一語ですらそうなのだ。一つの文章、一冊の本、一つの思想体系で完全な認識の一致を見る事など有り得ない。

以上に挙げた言葉は複雑で、その意味が人の数だけある事は明らかだ。
しかし、実際には全ての言葉に人の数だけの解釈がある。
出来る限りシンプルな言葉を思い浮かべる。今思いついた物で、例えば「木」、「青」、「太陽」。

木:無数にある木。国によって、地域によって、個人によって見て来た木も違えば思い描く木も違う。

青:それぞれ別々の目や脳を持ち、目に見える色も、それを脳が処理して感じさせる物も違う。青の中にも種類が有る。光が物に反射して色となるが、その点ごとに物質の状態も光の状態も異なり、光が通る間に通過する気体や液体にも影響を受ける。つまりこの世に同じ色をした二点は存在しない。

太陽:無数にある恒星の中で「太陽」は地球人にとって共通して唯一の物。しかし心の中で描かれるそれは同一ではない。寸分違わず同じ姿の太陽を描く二者は存在し得ない。

人間はそれぞれの宇宙、それぞれの世界を持っている。物事に対する認識が違うのは当然の事だ。

そして言葉は存在の全感覚によって認識されるこの世界や、得体の知れない精神や心を限られたスカスカな材料で表す物だ。
色、質感、温度などが、それぞれ一点一点異なる物を、音や文字で完全に表す事など出来るはずも無い。
思考には言葉が使われるが、その奥に潜む心を言葉で捕える事は出来ない。心は人が言葉を知る前から存在し、言葉や思考とは別の次元にその存在範囲を広げる物だ。

「言葉」はとても奥が深く、興味深い重要な道具である。
言葉が無ければ人間の生活は違った物になる事に疑いの余地はない。言葉は複雑な思考を可能にし、物事の理解を助ける。社会的で複雑な文明を創る事を容易にし、人間が社会的動物でいる事を許す鍵となる物。言葉の存在が「人間」を進化させたと言っても過言ではないほどの変化を与える物だ。加えて神秘的な力もあるだろう。「言霊」、「マントラ」なども興味深い。言葉は間違い無く人間としての存在にとって偉大な意味を持つ。

しかし、同時にただそれだけの物である。
この世界の何一つ正確に表す事は出来ず、言葉を使って思考しても自分の心を完全に理解するには至らない。
如何に言葉を操り、相手に伝えるかを工夫する事は大変面白く重要な事である。魂を込めた言葉は芸術になる。個人的に言葉の芸術が好きでとても大切にしている。
しかし他者との意思疎通には大小の違いこそあれ「必ず」毎回誤解が生じる。それが言葉の本質でもある。

言葉を使う時、会話をする時にはお互いにその事を念頭に置いて、誤解の存在を受け入れて、相手の世界を尊重して交流したい。
この世界には個人間の問題に留まらず、宗教的対立による争いや歴史認識の違いによる国家間の対立などが存在する。そこには「権利」や「生存」を含む無数の事象が絡み、簡単に解決出来る事ではない。しかし、いかなる形であれ人間同士で「対話」をする時には理解出来ない事、理解してもらえない事の存在を理解して、「善悪の定義などの一価値観の定義の押しつけ」による「画一化」や「排除」ではなく「調和」への道をお互いに目指したい。

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