「進歩」は歴史上、人類に多くの恩恵をもたらしてきた。
多くの病気を克服し、野生動物の脅威は減り、利用できるエネルギーは増えた。
しかし、何かを得ると同時に、必ず何かを失ってきた。
「得たも」のと「失ったもの」どちらが大きいのだろうか。
その問いに対する答えは、常に見る人によって異なる。
一つ一つの「進歩」が良いことか、悪いことか、その完全な答えは出そうもない。

しかし、一つ一つの「進歩」についてではなく、
普遍的な意味で、近代における「進歩」は人類にとって確実な脅威であると断言できる。

なぜか。
それは、人類の誕生以来、生存とは「適応」の歴史だったからだ。
人類として生活を始めてから数百万年、
サバンナで、肉食獣から身を隠しながら食料を得る方法を身につけ、
火の使い方を学び、
海辺では、漁を学んでその環境に適応し、
寒い地域では、毛皮や油の活用を覚え、
土地にあった作物の作り方を学び、
それぞれの土地に「適応」してきた。

「進歩」は「適応」のためになされるものだった。
と同時に、「進歩」は時に環境を変えた。
草原が畑になり、森が街になった。
自らがもたらした変化による新たな環境に「適応」しなければならなくなった。
「進歩」によってもたらされた変化に「適応」するためにさらなる「進歩」が必要となった。

「進歩」の恩恵により、
生存率が上がり、人口が増え、必要な食料が増えた。
その状況に対応するための更なる「進歩」が望まれた。

「進歩」の副作用として、
生態系が変わり、得られる食料の種類が変わったり、失われたりした。
川の形が変わり、海岸線の形が変わり、山の形が変わった。
新たな環境に「適応」しなければならない。

「進歩」にもたらされた技術によって、
機械が自動でものを作り、人が空を飛び、情報がリアルタイムで世界を飛び交う。
人々の仕事が変わった。
新たな仕事に「適応」しなければならない。

人類は、ほとんどの時代を自然環境への適応を課題にしてきた。
しかし、産業革命以降、
自ら「進歩」によって変化させた人工的環境に「適応」するという作業の比重が上回り始めた。
その「適応」にもたらされる「進歩」により、新たな環境の変化が起こり、また「適応」の必要に迫られる。

近年、そのようないたちごっこの速度が一気に上がっている。
それこそが、現代の「進歩」の人類に対する根本的な問題点だ。

これまで、「適応」は緩やかに行われ、生活スタイルが一定期間安定していた。
しかし、近年は目まぐるしく、世界が変化している。
一人の人生の中で、生活スタイルが根本的に変わるような出来事が何度も起きている。
インターネットや携帯電話、宇宙開発、それに関わるナビゲーションシステム、核の活用など。
今後はAI、遺伝子操作、さらなる核や宇宙工学の活用などで変化のスピードは緩まない。

一つ一つの「進歩」の評価は難しいが、
「進歩」のスピードが早いこと自体は確実な問題を二つはらむ。

①変数が多すぎて、「進歩」がもたらす環境の変化を予想する精度が極度に低下する。
大きな変化が複数同時に起きれば、未来は誰にも全く予想できないものになる。
宇宙空間の中、地球以外に生命を見つけることが極めて難しいほどに、
奇跡的なバランスによって生命は生存している。
この繊細な環境下で、予想外の大きな変化を多発させれば、それが我々にとって都合よく作用する可能性は天文学的に低い。
それは文字どおり「天変地異」。天を変え、地を異にする。人間が最も恐れる厄災そのものとなる可能性が高い。

②子供が自分の人生にすら適応できなくなる。
世界の変化が早すぎて、どんな社会を目指して、どんなスキルを身につけるために学べばいいのか分からなくなる。
そろばんは電卓によって消え、電卓はパソコンによって消える。車によって馬車は消え、新聞や手紙はインターネットによって消えつつある。
これからも、消えてゆく仕事や、不要になる技術が大量にある。生活環境もめまぐるしく変わってゆく。
子供の頃に、その世界に順応しようと学んだことは、彼らが大人になる頃には使い物にならなくなる。
現在も、終身雇用に都合のいいように教育されたにもかかわらず、大人になってみれば、単純作業は機械や安い労働力が奪い去り、創造性や独自性を求められる。
子供の頃に思い描いた大人になった自分の生活は、環境の変化でほとんど実現できない。
準備できていない予想外の環境に放り込まれてけんもほろろに向かう先を見失う。
同時に、それは老人の価値が下がることに直結する。
かつては、老人の生きた知恵は価値があったが、めまぐるしく変化する時代では、古い知識は活用されず、立場も役割も失ってゆく。

現代の人間の生きにくさは、この瞬間の「環境」の良し悪しではない。
適応しきれないほどに早すぎる「変化」によるものだ。
それが現代の「進歩」の問題点だ。

人間は、「変化」の先にどんな世界を求めているのだろうか。
それは人によって大きく異なる。
しかし、それぞれが全く違う未来を目指しながら、それぞれに「変化」を乱発すれば、その結果は確実に「混沌」となる。
あらゆるものが関わりあってこの世界は成り立っている。
それぞれが起こした無数の「変化」は互いに作用しあい、その結果は誰も予想できず、誰も望まない結果を引き起こす。
パンドラの箱のような事態になってしまう。

これ以上、「進歩」の速度を上げる前に、
一度、人類がどんな世界を望むのか、全員である程度のコンセンサスを取った方が良いのではないか。

今の体制では、もう限界にきている。
現代の資本主義は、もう古い。
環境破壊や、資源の枯渇などは計算に入っていない。
個人の利益の追求に重きをおきすぎることによる良心の不在や、公益性の欠如は明らかにデザイン当初の予想を上回っている。
遺伝子工学や、コンピューター工学は人類の力を超える存在を作り出そうとしている。
新技術に法も対応できず、
個の利益を追求する団体に、水や種子の利権を委ねていっている。
空気さえも、ビジネスに組み込まれ始めている。

一つ一つの「進歩」がもたらす変化の大きさの割に、その進歩によって目指す社会の在り方のビジョンは見えてこない。
どこを目指して我々は「変化」を起こしているのだろうか。
目を閉じて放たれた矢は、我々の望むものには当たらない。

そろそろ、人類全員が、本気で考えなければ、取り返しのつかない事態が目の前にきている。

こんなことを叫んでも、自分の力では何もできない。
この現状を変える唯一の方法は、全員が本気で考えることだけ。
一人でも、考えるきっかけになれば、わずかだけれど前進になる。
だからこそ、伝え続ける。

最近、人が本当に望む社会とはどんなものなのか想像する。
不思議と、古今東西、人の求め続けた社会は似通っている。
ユートピア、エデン、桃源郷、世界各地の天国や、伝承中に夢見た理想郷。
自然の恵み豊かで、実り多く、花が咲き、動物がいて、美しい環境の中、家族や人々が共に平和に過ごす。

同時に、夢のような未来の技術や、宇宙の彼方に思いを巡らせると、胸が踊る。

まだまだ答えは出そうもない。
しかしきっと、そんなところにヒントがあるのではないかと思う。
目指すべきところを見出す道筋はわからない。
きっと、世界中誰にもわからない。

途方もなく難しい。
しかし、これまでの「進歩」にもたらされた恵みを生かし切れれば、様々なことが可能になる。
今は「進歩」の加速よりも、その活かし方、それを保つ心の在り方。

いたちごっこではなく、この地球に深く「適応」する道を。
自然や家族と共にある、人としての幸せを。
皆で考える時が来ている。