経済について

『もったいないの心』

スウェーデン 着物

旅で持ち歩くもの。
毎日のように使う必要最低限の仲間。

麻のふんどしは穴だらけでもうボロ切れのよう。
肌に心地よく気に入っている。
1年半前にペルーで出逢った旅人の手作り。
自分の作ったドリームキャッチャーと交換して以来ほぼ毎日身につけている。

先日まで、一年間ほぼ毎日着ていた緑色の浴衣は穴が空いても縫っていたけれど、肩の部分がすり切れて布が無くなってしまって仕方なく置いて来た。
薄い布で涼しく、丈にあって、色も気に入っていた。
この浴衣はいつもお世話になっている方から頂いたもの。

3年以上使っている黒いバッグも紐が取れかけては縫い、穴が空いては縫って使っている。
バナナファームの職場で使われている物と同じ物で気に入っている。
これはオーストラリアでバナナファームの肉体労働を共にやり抜いたオーストラリア人の兄弟に貰ったもの。

先日まで使っていた下駄は、薪割りで激しく動きすぎて折ってしまったけれど、ガムテープで張り付けてなんとか使っている。
黒くて綺麗で好きだった。
これは山暮らしをする素敵な方に頂いたもの。

愛用しているヘッドライトはダイビングのインストラクターをしていた頃に、いつもロッククライミングや川遊びを一緒にしていたオーストラリア人の同僚に貰ったもの。
「山を突っ切る時に使え。」って渡された時は本当に嬉しかった。
懐中電灯の類いはいくつか無くしてしまっているけれど、これは長いこと傍にあって離れない。

自分はあまり多くの物を持っていないから、
毎日ほぼ同じ物を使っている。
しかし、普通の行動が出来るうちは物が足りないと感じる事は無い。
そしてボロになっても使う。
壊れても直す。
我慢している訳でも、いつかはもっといい生活をとも思わない。

いつも同じ物を使うのも、直して長く使いたいのも、大切な人に貰って愛着があるから。
くれた人が好きで、貰った物も本当に好きだから。
使う度、身につける度に、その人を思い出して近くに感じられるし、感謝が込み上げる。
周りの人に生かされて、こんなに有り難い事は無い。
この上なく豊かだと心底思う。

「もったいない」という日本人独特の言葉が脚光を浴びている。
これは質素な暮らしで我慢する事でも、物欲を抑える事でも、環境に配慮して節制する事でもないと思う。
「あの方から頂いた。」
「あの方が作ったもの。」
「こんな思い出がある。」
そこにある価値は、物質を超えたもの。
愛おしくて仕方ない。
粗末に出来る訳が無い。

食料や、お金で買った物でも
「あの人があそこの畑であんな風に苦労して作った。」
「こんな風に生きていたものの命を糧としていただいた。
「糸をよって染めて織って心を込めて作っただろう。」
「先人が積み重ねた知恵があるお陰で、こんな物が作られる。」
こう言う事が分る環境なら、祖末になど出来る訳が無い。
自然と手を合わせて感謝を伝えたくなる。
食べ物を残さない事や、物を大切に使う事は「マナー」や「常識」、「社会への配慮」から行う程度の事じゃない。
好きだから、そうしたいから、有り難いから、自然と心からそうせずにはいられない事。

「もったいない」は教えるべき概念でも、社会の構造の為に用いられるべきアイディアでもない。
物事の道理が分れば、自然に心が感じる感謝の心。

近年、日本の人々が物を買う事を「消費」と呼び、「経済」を活性化する為にはもっと「消費」する事が必要だと口にする事に強い違和感を感じる。
「消費」という言葉は明治以降にConsumeの訳として作られた。
Consumeを史上初めて説明したのは、1776年に出版されたアダム・スミスの「国富論」。
「経済の目的は消費であり、生産はその手段である」という言葉は有名だ。
しかし、これも限られた種類の社会の一側面を彼なりに描写しているに過ぎず、真理という訳ではない。
「経済」とはどういう概念か、それは必要不可欠な物なのかという部分を脇において、ただ言われるがままに、「感謝と共に頂く」事を「消費」に置き変えてしまって、いたずらに物を費やす事を目的にして我々は本当に幸せなのだろうか。
より多くの「消費」は「心」を置き去りにするほどの価値があることなのだろうか。
「消費」という言葉を作った頃は、列強に押され、大々的に人種差別、植民地主義が押し寄せていた。
真似しなければ生き残れない時代。仕方が無い。
しかし今、日本は「心」をもう一度見直せる時代にきている。
逆に、「経済」と「消費」を振り回したせいで世界全体が環境問題、資源の問題などで危機的状況にある今、日本で培われた心が世界中に伝えられるべき時代ではないか。
世界が日本のかつての姿を真似しなければ生き残れない時代にきているのではないか。

大量生産で多くの物を得ながら、物はただ物として「消費」するのと、
人や自然との繋がりを持って、物に物以上の価値を感じながら「心」や「命」に感謝して、必要最低限の物を大切に使い、頂く事はどちらが本当に幸せなのか。

小さい頃、買ってもらったプラスチックのおもちゃよりも、じいちゃんが作ってくれた竹の水鉄砲が嬉しかった。
その温かさと共に、そういった物は今も心に残っている。
それが心の豊かさの糧になる。

人は物質だけでは、どれほど得ようとも満足出来ない。
人はただの物質ではないのだから。
「命」と「心」を持った物質である人が、根本的に求めるのは「心」。
物質はその表現方法で仲介役。
心と物の双方を大切にする事が、日本人がこの土地で培ってきた生き方ではなかったか。
それをもう一度、出来る限り多くの方と考えたい。

物に心を感じ、感謝して
自然に心からもったいないと、大切にして
世界中の人々と心で繋がりながら豊かに暮らせる社会を夢見て。
どうもありがとうございました。

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