科学について

日本の工学の夢

日本の工学の夢

大学を卒業してから海外に出て四年が経った。
将来的に自然環境の保護に関わる活動をする事を志しながら、実質的な活動をしていく前に自分の目で地球の環境を見てこようという思いから旅を始めた。いくつかの国で時に仕事をもらいながら、時に家族に加わりながら、時に野宿をしながら、時に先住民にお世話になりながら放浪して来た。先入観を出来る限り持たず、見られる限りの世界や文化、価値観を見ようと心がけて来た。
今、工学に関わる方々に伝えたいと思う事を思い浮かべると。それは「日本の工学」と「夢」についてだった。少し聞いて頂けると有り難い。

まず最初に夢について。自分の持っている夢の中で一番根本的な物は「人、自然、国などのあらゆる物が調和を保って多くの人が幸せに生きられる世界」。ただ出来る限り多くの人が幸せに生きられる社会にしたい。
この夢の気に入っている点を三つ挙げる。
一つは終わる事がないという事。社会に完成も完璧も有り得ないし、人々は入れ替わる。この変化の中で様々な形で常に目指し続けるしかない。どの時代に産まれようと死ぬまで暇をしない。
一つは全人類が共に目指すチームになり得るということ。幸せの定義は人それぞれだし、誰かが望むけれど他の人が望まない事もある。しかし、「お互いが幸せでいられる」という事自体は誰もが望むことも可能だ。
一つは気分がいいという事。人の幸せも、人に喜ばれる事も嬉しい物だ。そこに理屈は要らない。動物でも喜ばれると嬉しそうにする物が居る。もし周りで人が悲しんでいればそれを感じるし、社会の一員としてのしわ寄せもくる。望ましい事じゃない。「人の不幸は蜜の味」なんて言葉も在るけれど、それは自分自身が深い幸せを感じられる精神状態ではない。

人はいくつかの夢を同時に持つ事が出来る。こんな漠然とした内容ならば尚の事、誰でもこれをいくつかの夢の中の一つに加える事が出来る。是非これを皆さんの夢の一つにも加えて頂いて共に目指す事が出来ればこの上なく嬉しい。特別な活動をしてほしいという訳じゃない。日々の中にその気持ちが在るだけで大きな力になる。

なぜこんな事から話を始めたかというと、特に現代の工学にこれが非常に重要だと思うからだ。
工学は科学や数学を使う理系の学問だが、理論や真理を論じる物ではない。最新の理論と技術を組み合わせて、物を作る事によって現実世界に貢献する為のものだ。理論と現実の架け橋となるべき物。前提として「ロマン」や「好奇心」が主役ではなく、「世のため人の為」に行う物だ。もちろん前者も必要だが、それだけではいけない。
しかし暗示的に工学をやるのは世のため人の為だと自分に言い聞かせても仕方がない。夢の一つとして「多くの人の幸せ」を持てば、自分の人生の中でのその為の主要な手段として工学を位置づける事が出来る。目的があって行えば、張り合いもあるし生き甲斐にもなる。

近代、急速に科学技術が発達して、人類は巨大な力を持った。
力には常にそれ相応の責任が伴う。
責任を果たすには十分な能力が必要とされる。
能力が不十分で責任が果たされず、力が意図しない方向に作用すれば、その力に応じた被害を生む。

人類が核爆弾を作った時、その研究者はどんな状況だったか。原発の時はどうだったか。誰が間違っていたとか、そういう事を言いたいのではない。ただ原因と結果の中で彼らには大きな責任が課せられていた。
人工知能や生物兵器、遺伝子操作やクローン、宇宙兵器、気象操作、原子核変換などなど今後も人類はさらに力を増して行き、その責任はさらに飛躍的に重さを増して行く。
その立場によっては、一人の行動が何百万人、何千万人、もしくは全人類や地球環境に影響を与えるような状況にもなり得る。
もはや、この力を追求する理系の人間が、単なる「好奇心」や「仕事」の為にこの道を進む事は出来なくなっている。一人一人が巨大な責任を果たす為に政治や環境や世界情勢や人の心など多くの事を視野に入れなければならない。そして最終的に「人の為になるか」、「環境の為になるか」という事を常に意識しなければならない。

理系の人間ならば誰でも、一つの実験を成功させる為に、理論を元にどれだけ多くの条件でトライアンドエラーを繰り返さなければならないかを痛感している。最初から計算だけで大きなシステムを作れはしない。
自然環境の循環や人体の機能、環境への適応は途方もない時間をかけて実験を繰り返して洗練されてきたサイクルだ。人が小手先だけで「この方がよかろう」とむやみに部分的に変えてしまえば全体のバランスが崩れて取り返しのつかない事になる。想像を絶する年月の中、実験を繰り返して作られた地球環境を人間の為と思っていじっても、状況によっては巨大なしっぺ返しを食う事になる。自分で作り出した問題を解決しようと他の部分を変えれば人が消えるまで永遠に終わらないいたちごっこの始まりだ。

科学技術の発展を否定することはない。ただそれをどう使うかをよく考えなければならない。
その時に「人の為になるか」という事を原点にする事が非常に重要だ。
人のためを考えれば、自然の事も大切にせざるを得ない。人は自然に依存しなければ生きられないし、自然は理屈抜きで美しく愛すべき物だ。
時に「人の為」と「自然の為」を矛盾する物のように扱う考え方があるが、それは非常に狭く、短期的な考え方だ。
人は自然に依存する。自然からはなれる事を今後も絶対に不可能とは言わないが、そこに人としての幸せがあるとは思えない。
人間も自然の一部であり、寄り添って生きなければならない。自然を破壊する事は人間を破滅に追いやる事だ。逆の極論として、人間として生を受けながら、自然の為に人間を滅ぼすというのも不自然な事だ。
人と自然の調和が求められている。
そして、この人類が強い力を持った新しい状況の中で、「人の幸せ」や「自然との調和」を前提に考えた人の為の技術にこそ、工学の力が発揮されるべきではないか。

そして、日本の工学こそ、その分野の先頭をきって行くべきものだと信じて疑わない。
日本人の美点と世界の中の立ち位置、そして高い技術力。日本ほどの適任はいない。

自分は技術者としての道は進まなかったけれど、それは自分が目的の為に用いる手段として選ばなかっただけで、工学を好いていない訳ではない、先日もセルン研究所やBMW本社を見学してワクワクしたし、生物の中に歯車を搭載したバッタが発見されたというニュースに驚いた。今でも大学やそこに居る先生方や先輩、後輩、仲間達も大好きだ。
そして、工学という物は本当に重要だと思っている。
だからこそ、「人の幸せ」、「自然との調和」という夢を共有する同志であれる事を願っている。

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