バラナシ 平和について

ガンジス川での沐浴 「日本の常識」と「世界の現実」

ガンジス川 沐浴

早朝、ガンジス川へ。
この聖なる川で沐浴をすれば罪が清められると言われている。
この川に遺灰を蒔けば輪廻から解放されると言われている。
川辺の火葬場は24時間火が絶えず、焼かれないまま流される死体もある。
ここで死を待つ人々もいる。
この国の人々にとって最大の聖地の一つだ。

インド人でも、遠くから着た人も少なくないのだろう。
洗濯や日常的な沐浴をする人に交じって、家族で写真を撮ったり、念願叶ったと言うような神妙な顔をしている人も多い。
川が朝日を反射して黄色く輝いている。

川と太陽の方へ階段を降りて行き、水辺で横の人に挨拶をする。
「おはよう。いい朝だね。」
服を脱いで下駄と一緒にそっと置く。
ボロボロに穴の空いたふんどし一丁になってまた水面を眺める。
これが昔、人類がここに住むようになって以来、人の生活を包んできたこの土地の母なる神だ。

一歩水に入る。
気持ちのいい水温だ。
緑色に濁った水はやはり清潔ではない。
川底にも水面にもゴミが漂う。
糞尿まじりの汚水がすぐ近くから流れ込んでいる。
工業廃水も流れ込んでいると言う。
一歩、また一歩入って行く。
胸まで浸かって川を感じる。
犬の死体が右側から流れてくる。
無数の虫の死体やゴミ、なんだか分らないものが目の前を通り過ぎてゆく。
足に大きな魚が触れる。

横で沐浴をしているおじさんが身振り手振りでやり方を教えてくれる。
手で大きく水面のゴミをかき分けて、その隙に一気に全身を水に沈める。
同じようにやってみる。

ザブッ

カラ、コロ、ブクブクと水中独特の音。
やはり水の感覚は気持ちがいい。
水中から上を眺める。
緑色の世界に無数の光の輝きが差し込んでいる。
美しい。

水面に顔を上げる。
隣のおじさんがニコニコしている。
何度か繰り返して、
そのまま仰向けに水に浮かんで流される。
この川が母とは、よく言った物だ。

そこには様々な人がいる。
子ども達は川ではしゃぎ回り、水を飲む事などお構いなし。
日常的な洗濯をする人。
体を洗う人。
漁をする人。
花を売る人。
船に乗る人。
瞑想をする人。
体を支えられて熱心に沐浴をする老人。
そして、死者の灰や死体が川に流される。
この川辺には、誕生から死までの人々の生が凝縮されている。

こうしてただ川の流れに浮かんで人々を眺めていると、
死んでこの川に流されるのはこういう気分かとふと思ってしまう。
ただ流れに漂って、老若男女、人々の生活を眺めて去ってゆく。

そんな自分を滑稽だと思った所で上流に向かって泳いでゆく。
今度は流れに逆らって泳ぎながら、さっき見た人々を眺める。
時が来るまでは、様々な物が漂う死に向かう流れの中を意志を持って泳いで生きる。

川から上がって、その辺に座って川や人々を眺める。
この川に入って疫病にかかった話や、高熱、下痢、感染して生死の境を彷徨った話、救急車で運ばれた話、亡くなった人の話などを今までにさんざん聞かされて、少し覚悟していたからか、上がってみると、気分がすっきりしている。
あとはなるようにしかならない。
まだ自分がどうなるかは分らないというのに人間とは単純な物だ。

帰り道、道端に散乱した動物の糞やゴミ、様々な生き物が目に入る。
今、そういった物に距離を感じない。
目に入る全てを包み込むガンジスにゆっくりと体を沈めて戻ってきた今、はっきり感じる。
善くも悪くも、自分はそういった物と変わらない存在だ。
世の中に貴賎はない。
ただ全てが係わり合い、流れて循環している。

ここに住む人々にも、以前に増して親近感が湧く。
線はいつも自分が引いている。

日本のような文明社会に生まれ育った自分は、まだまだ現実が見えていない部分がある。
スーパーで売られている食料はどこでどのように育てられ、加工され、今手元にあるのか。
家畜はどのように育てられ、どんな風に屠殺されて流通するのか。
日々、トイレで排泄された物はどこでどんな風に世界の循環の中に戻って行くのか。
電気はどこでどう作られたのか。
捨てたゴミはどこへ行くのか。
海外から安く輸入された物はどのように生産され、その土地の人々はどのような生活をしているのか。
何気なく買った物で出た利益がどんな所に流れ、どう使われるのか。
人はどんな風に産まれて、どんな風に死んでゆくのか。

日本も含めて近代文明の中で生まれ育った人々は、こう言った事を頭で分っているようでも、実感としてはまるで分かっていない。
毎日のように自分自身、痛感する。
汚物や人や動物の生死、食べるという事をここまで見せつけられて最初は衝撃を受けた。
それらに身を浸しながら思う。
ここに住む人々は、我々の言う「常識」はなくても、生と死の「現実」を肌で知っている。

我々は「常識」は知っていても、「現実」はまるで解っていない。
そして、文明社会の人々はそれを自覚し始めている。
今、お互いに歩み寄らなければならない。

ヨーロッパ人は、産業革命を起こし、二度の世界大戦の舞台となり、人間の所行を間近に見てきた。
環境問題に対する関心も物凄く強い。

アメリカ人は、正義と自由の名の下に無数の戦争を世界中で繰り広げながら、資本主義、グローバリズムの現代の担い手として世界中に大きな影響を与え続けながら強引に我を通してきた合衆国政府を内側から見続けてきた。様々な人種を抱えながら「自由」の名の下に新しい価値観を創ってきた。その分、現在一部の国民の不平等への反発は強い。

日本人は、太平洋戦争、核の投下、バブル経済とその崩壊、原発事故を経験し、今多くの人が「価値」と言うもの、「命」と言うものについて真剣に向き合っている。人間としての生き方を考え直している人がどんどん現れている。

かつて「列強」、そして今「先進国」と呼ばれるような国の人々は今、地球に生きる事の「現実」と真っ正面から向き合い始めている。人の創った「常識」しか見ないままでは人類はこの惑星で生き残れない。
幸か不幸か、力で支配されているこの世界では、力を持って弱者を支配して豊かな生活を享受している先進国と呼ばれる側が変わらなければ、大きな変化は望めない。抑圧されている人々は毎日、誰にも叫びを聞いてもらえずに戦いや飢えの中、人知れず命を落としている。しかし、不平等にも日本に産まれた若者のこの声は一日で何千何万の人の元に届く。出来る事や権利が多く与えられているという事は、そのまま責任も重くならざるを得ない。もしも日本が日本として声を上げれば、世界に対して巨大な影響力を持つ事になる。

望んでか望まずか日本に産まれた我々は世界で最も多くを与えられている民族の一つ。その分、責任からも目を逸らすべきではない。
日本政府の優れた代表者が個人的に考えた素晴らしい「日本の声」と、日本の国民の半数以上がはっきりと想いを持った状態でその代弁者として政治家が発言する「日本の声」では、そのメッセージの世界に対する意味と影響力、説得力がまるで違う。

世界の今後は、日本に産まれた我々一人一人にもかかっている。
日本人は「出来ない事」の「常識」ばかりに目を向けず、
この世界の状況の中で日本人だから「出来る事」の「現実」にもまっすぐに目を向けて前身していくべきではないか。

強靭な忍耐力を持つ人々
どんな事でも「道」として極め続ける人々
新しい物を伝統の中に柔軟に取り入れて新しい物を創る人々
和を尊び調和に美を感じる人々
強い正義感を持ち、人を思いやる、世界中からその行いを驚愕される人々
最も多くの国から信用される国の一つ。

我々に何が出来るのか。
どうすればより良い世界になって行くのか。
日々をより楽しくする為に、国籍や民族、宗教を超えて世界中で協力し合って何が出来るか。
「常識」と共に世界中の「現実」にも目を向けながら、
日本の皆で夢を持って考えて行きたい。

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